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連載『言語の役割を考える』
第1回 意味の問題をめぐって

田中茂範(慶應義塾大学名誉教授、PEN言語教育サービス)


はじめに

 言語は、人間の営みにおける最大のメディアである。過去を回想して語り、今を語り、未来を展望して語ることが可能なのは、言語があるからである。言語は、情報・知識の共有を可能とするメディアである。言語は、人を喜ばせたり、悲しませたりするし、歴史をつくり、学問をつくり、そして法律をつくり、社会をつくる。言語の力についてリストアップすれば枚挙に暇がない。

 この連載では3回にわたり、言語に関するいくつかのテーマを取り上げる。連載のタイトル(仮)だけを示すと「意味の問題をめぐって(第1回目)」「意味知識と概念の形成(第2回目)」「用語の定義と説明(第3回目)」の3つである。言語を扱う研究は――それが言語学であれ、哲学であれ、社会学であれ、言語教育であれ――必ず「意味」という問題に向きあわなければならない。言語活動において人々が反応するのは意味だからである。しかし、意味は研究対象としては、扱いにくいものである。それは、見たり、触れたりすることができないからにほかならない。しかし、それでも、言語を語るうえで意味の問題は避けて通ることができず、これまでさまざまな観点から意味の論が展開されてきている。本稿も、そのひとつである。

2つの意味観

 意味の捉え方については、荒っぽい言い方をすれば、2つある。まず、意味というのは実在する何かであるとする実在論的な捉え方がある。標準的な記号論では、言語記号の表現面(シニフィアン)と内容面(シニフィエ)の相関物(表裏一体の関係態)として捉える。そして、そこから、「コトバには意味がある」「コトバは意味をもつ」という前提が生まれる。実際、多くの人は「コトバには意味がある」と考える傾向がある。しかし、「意味の在処(ありか)」を問うと、その考え方には疑問がでてくる。「コトバには意味がある」と考える人は、「辞書に意味が記述されているではないか」と指摘する。しかし、辞書にあるのはコトバであり、意味そのものではないのである。なお、本連載では、音あるいは文字として表現された言語を「コトバ」とカタカナで表す。例えば「正義」の項に「正しい物事の道理」と書かれていても、それは、意味ではなく、コトバである。「正しい物事」とは何か、「道理」とは何かが改めて問われるからである。

 もう1つの意味の捉え方として、意味構成論の立場がある。端的にいうと、「コトバの意味はつくられる」という考え方である。コトバにある意味が所与として備わっているのではなく、コミュニケーション行為のその都度、意味はつくられるという立場である。この「つくられる」というのは、もちろん誰かによってつくられるのであり、意味の問題を問う際に重要なのは、例えば「『家族』の意味とは何か」ではなく、「Aにとって『家族』の意味とは何か」である。日本語がわからない人にとっては、「カゾク」という音(コトバ)は聞こえても、その意味を構成することはできない。すなわち、コトバを聞くということと、コトバから意味を構成するということは同じことではないということである。

 この意味構成論は、フッサール(1979)の現象学や時枝誠記(1941)の国語学で提唱された考えである。しかし、構成される意味とはいかなるものか、それはどのようにして構成されるのであろうか。この問題に真正面から問うたのが深谷・田中(1996)と田中・深谷(1998)の「意味づけ論」である。

事態構成としての意味

 意味づけ論によれば、コトバの意味とはコトバから構成される事態である。このことを「翻訳」を事例にしてみてみたい。翻訳という行為は、表面的には、言語Aを言語Bに変換する作業のことをいう。しかし、翻訳過程において、何を「変換=翻訳」するのだろうか。

 日英語間での翻訳を例に考えてみよう。日本語で表現されたコトバ(文字)を英語のコトバ(文字)に変換するのが翻訳であるという考え方がある。この記号変換は自動翻訳の場合であれば、納得できるだろう。がしかし、人間が行う翻訳では、日本語で表現されたコトバを英語のコトバに変換しているだけではない。翻訳者は日本語で表現されたコトバを意味づけし、意味づけた意味(=事態)を英語に再構成しているのである。

 すると、翻訳には、「解釈」と「表現」の2つの行為が含まれることになる。原典となる作品は、作者が日本語で意味世界(事態)を構成した産物である。そして、翻訳者は、作品(コトバ)を意味づけすることで事態構成を行い(解釈)、その内容を英語というコトバに事態構成する(表現)。

 例えば芭蕉の「古池や、蛙飛び込む、水の音」という俳句を取り上げてみよう。この俳句の英訳は数多く、以下はその代表的なものである。

 "The ancient pond / A frog leaps in / The sound of water."(Donald Keene)
"Old pond -- Frogs jumped in -- Sound of water." (Lafcadio Hearn)
"Into the ancient pond / A frog jumps /Water's sound!"(D. T. Suzuki)
"The quiet pond / A frog leaps in / The sound of the water." (Edward Seidensticker)

 ここでの翻訳者は、いずれも日本文化に精通した研究者・作家である。そして、英訳が複数存在するということは、事態構成の可能性が開かれていることを含意する。leap なのかjump なのか、jumps なのかjumped なのか、a frog なのかfrogs なのか、old なのか ancientなのかquietなのか、これらをめぐっても事態の構成内容は変わってくる。ここでいいたいのは、翻訳者は、テクストを自ら解釈し事態を構成し、それを英語で表現することを通して英語版(英語テクスト)を作成しているということである。

発話の意味と発話者の意味

 日常の生の営みにおける会話の意味についても同様のことがいえる。すなわち、話し手はあることをコトバで表現することにおいて――そしてまさに表現過程を通して――事態を構成するのであり、聞き手は相手のコトバから語られた事態を(再)構成することでそのコトバを理解するのである。コトバを意味づけするとは、事態の構成を行うということである。話し手からみれば「コトバへの事態構成(語る事態)」であり、聞き手からみれば「コトバからの事態構成(語られた事態)」である。

 意味の問題を考えるには、「意味=事態」説をさらに進めて、「事態」に何が含まれるのかを明らかにしなければならない。その際に、意味づけする人の情況を考慮する必要がある。つまり、人は自らの意味世界に生きている。そして、人にとって意味世界が現象するのは「今・ここ」においてである。それは「私」の中に息づいている意味世界である。この「今・ここ・私の意味世界のありよう」のことを「情況」と呼ぶことができる。人は自らの情況を絶えず(再)編成しながら生きているのであり、コトバの意味づけも個々人の情況内で行われる。したがって、コトバの意味は、「情況内事態」として構成されることになる。そして、結論を先に述べると、情況内事態は、《対象・内容・態度・意図・表情》把握を通して構成される。ごく簡単に説明すると以下のようになる。

 対象把握によって、人は名詞の指向対象を把握する。例えば「学校から急な連絡が来た」という際の「学校」は「建物としての学校」を指すのか、「学校当局」を指すのかといった問題が対象把握の問題である。内容把握とは、その名の通り、コトバの内容の理解を行うことであり、対象把握は内容把握に含まれている。すなわち、内容把握を行うとは、「発話の意味(事態の内容部分)」を理解することである。

 しかし、人は実際の言語的やり取りにおいて、「発話の意味(utterance meaning)」だけでなく、自らの情況の中で「発話者〔表現者〕の意味(speaker meaning)」をも意味づけしている。発話者の意味は、「態度・意図・表情把握」を通して行われる。「態度把握」は話し手の発話態度が誠実であるかどうかに関わり、皮肉、嘘、冗談などは態度把握の相で意味づけされる。「意図把握」は話し手が何かを言うことで何をしたいのか、あるいは何をしてほしいのかを理解することを意味する。「表情把握」は、発話者の発語行為がどういう表情を帯びているかを捉える相である。「普段と変わりなく」「自慢げに」「元気なさそうに」「高圧的に」などとして表情は把握される。発語行為は不可避的に表情を帯びているため、表情把握は、態度把握・意図把握と同様に、発話者の意味の把握においては不可欠な役割を担う。そして、これらの発話者の意味は、情況の中でのみ意味づけされる。

 意味とは何か。それは、まず、誰かにとっての何かについての意味である。そして、意味はコトバに張り付いているのではなく、誰かによってつくられる。そのつくられる意味は、事態であり、コトバからの事態構成が理解、コトバへの事態構成が表現ということである。そして、表現は誰かが行うものであり、日常世界におけるコトバ(発話)の意味(=情況内事態)は、「発話の意味と発話者の意味の融合態」として意味づけされ、強調点は異なるにしても、それは必ず《内容・態度・意図・表情》の総合的把握を通して理解される。これが本稿の結論である。

【参考文献】
1) フッサール, E.:現象学の理念(長谷川宏訳),作品社,東京(1979).
2) 時枝誠記:国語学原論,岩波書店,東京(1941).
3) 深谷昌広・田中茂範:コトバの意味づけ論:日常言語の生の営み,紀伊国屋書店,東京(1996).
4) 田中茂範・深谷昌広:意味づけ論の展開:情況編成・コトバ・会話,紀伊国屋書店,東京(1998).

 

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