2013年7月21日に、第2回ARCLE研究会を開催しました。今年度のARCLEでは、学習や指導を規定する大きな要因の1つである入試について、特に高校入試を研究します。また、中学生・高校生がどのような英語学習をしているのか、その実態も把握していきたいと考えています。
今回の研究会には、英語学習研究の研究リーダー、信州大学 酒井英樹先生を新たにお迎えし、研究サブリーダーの駒沢女子大学 工藤洋路先生とともに、学校および趣味を含む家庭での英語学習全般について、中学生・高校生へのヒアリングを行った結果を共有いただきました。また、高校入試研究の研究リーダー、静岡大学 亘理陽一先生からは、研究メンバーである中学校の先生方と行った、2003年度と2013年度の公立高校入試の一次分析結果を共有いただきました。これらの内容を踏まえて、ARCLE研究理事とともに、今後どのような点を深めていけばよいかを議論しましたので、その議論を踏まえた所感を紹介します。
大学入試がいくら変わっても、高校の先生の教え方、そして生徒の学び方が変わらなければ、結局は入試対策に明け暮れるだろう。そう考えると、入試改革もさることながら、やはり、授業そのものをどう変えるかが一番大切になってくる。いくら教育改革を叫んでも、また、先生がいくら英語を使っても、もし、それが一方通行的な教え方で、普段やっている日本語を使った授業を単に英語に直しただけだとしたら、ますます生徒はわからなくなるだろう。CAN-DOリストを学習目標にする、という考え方は、生徒が「〜できる」と答えるところに意義があるのであり、そのためには、生徒が能動的に自らの考えや気持ちを表現するために英語を使うことが前提となる。英語の授業は英語で行うことを基本とする、ということは、生徒が英語を使うことを前提としていることを忘れないようにしたいものである。
指導は学習を規定する。予習を前提とする授業では、生徒は予習をする。これまでの聞き取り調査では、その予習の有り様に、驚くほどの均質性が見られた。ノートの見開きの左ページに本文を、右ページにその訳文を書く。また、そのページの新語と訳は、その見開きの下に書かれる。こうした「ノート指導」は、大学での英語科教育法のテキストでも授業でも触れられてはいないが、中学・高校での多くの教室で連綿と続けられてきているようだ。しかし、このノート作成作業に英語の家庭学習のほとんどの時間が割かれているとしたら、どうだろうか。同じ時間であれば、生徒が自力で英語の文章を読んだり、書いたり、聞いたり、話したりしたほうがいいという考えもある。言語の習得は、学習者自身が言語処理を行っているときにのみ促進される…はずだ。そんなことを考えた研究会であった。
高校入試研究と英語学習研究の中間報告は大変興味深く、全体的に英語教育が旧態依然としている実情が浮かび上がってきた。中学生や高校生への普段の英語学習についてのインタビューの中からは、英語に熱心に取り組んでいる高校生が「今は受験のために頑張り、使える英語は大学になってから」と考えていることがわかった。大学で教えていると、自分の意見を英語で(もしかすると日本語でも?)言えない多くの学生の大きなフラストレーションを見る。話すことは話すことでしか身につかない。当たり前のことだが、なんと難しいことか。テスト改革も含め、使える英語を獲得するためには、さらなる変革が必要だと思った。
授業は変わっても、生徒の学びは変わっていない。英語で英語の授業が行われるようになって、表面上は授業が変わったように見えても、授業を受け身に受けている限りは、学びの本質は変わらない可能性がある。Can-Doリストでは、能力面がクローズアップされるが、学びに対する自己効力、つまり、「学ぶことができる」という自信を培っているだろうか。授業はさまざまな学習方略を学び、自律的学びができるようにしていくための場でもある。そのためには、授業中に学びの達成感を体験させ、スタイルや方略への気づきを高めていくことが必要となる。学習の価値が個人に内在化されてはじめて、学習者は自律的に動機づけられ、学習者信念も変わっていくだろう。
「消しゴム」を使わなくなって久しいが、新しい消しゴムの角を使うタイミングや、丸めたカスの行き先といったエピソードに関する記憶は今も残っている。そういう、地域や学校、世代を超えてさえも共有されているような学校体験がいくつかあるが、英語の授業にもそれが存在・遍在する可能性が示唆された。カリキュラム・レベルの動向の評価は、この底流との関係で見なければ表層に流される危険性があるだろう。他方で、学習の実態には個々人の年齢や学習歴・学習環境・教材・学習者本人の英語学習に対する信念・行動などの要因が複雑に絡み合っている。当然そこには、学習者を取り巻く他者の信念・行動が強く影響を及ぼしている。多様性と複雑さの濁流に分け入り示唆を得るのは決して容易なことではないが、我々が真摯に受けとめ解決すべき実像が今後明らかになっていくであろうと感じた。
中学生・高校生の英語学習研究の中で、学校の先生が指示した学習方法として「ノートの左に教科書本文の全文を書いて、右にその訳語を書いてくる」という作業が話題になったが、私自身も高校時代に、同じことを実施していた。時に、Thank you.など、ほぼ瞬間的に意味が頭に浮かぶものに対してもわざわざ和訳を書く意味があるのかとこの作業の意義を疑ったことはあるが、「英語学習=教科書本文の和訳」という呪縛から抜け出すことはなかったし、また抜け出そうとして他の学習方法を模索したことはなかった。約20年前の自分のこの方法を今の高校生の多くが主たる英語学習方法として実行しているかもしれない状況があるとすれば、何とかしてこの状況を打破してもらいたいが、そのためには中学校や高校の英語の先生には、彼らに、英語それ自体だけではなく、英語の学習方法についても授業内で教えてあげられる工夫をしてもらいたいと強く思う。ノートの「左:本文、右:訳語」という学習方法も先生に言われたからやっている場合がほとんどであるので、他のより良い学習方法も生徒は純粋に受け入れて、先生の指示通りに、実践してくれるはずだ。
高校入試研究で分析の途中結果が報告された。入試が変わらないから英語の指導方法を変えられないという声を聞くことがある。入試について先生方や保護者あるいは生徒たちが思い込んでいることと入試の実態は合致しているのだろうか。また、入試は本当に変わっていないのだろうか。そのような疑問に答える包括的な研究になることが期待できると感じた。入試問題の種類だけでなく配点や採点など入試問題作成者の考え方が反映される側面も無視できないと思った。英語学習研究では学習者へのインタビューによる質的研究の中間報告がされた。学習者の語りから英語教育に関するさまざまな事柄が見えてくる可能性を感じた。