ARCLE理事によるコラム、第12回は、東京外国語大学・根岸雅史先生です。
日本では、英語教育の目的について、「実用か教養か」という議論が長年続いてきました。実用派の議論はときに、英語は限られた生徒だけが学習すればよいという主張に繋がったりしていました。この外国語教育の目的論に関連して、OECDのWEBサイトには、「なぜ外国語学習が重要か」というページがあります。OECDは、従来の目的論よりも幅広い、「異文化理解」「経済的恩恵」「認知的恩恵」の3つの観点からの興味深い回答を載せています。
近年のAIのめざましい進歩は、この英語教育の目的論に大きな影響を与えつつあります。特に大規模言語モデル(LLM)は、英語教育へ与えるインパクトが大きいと言えます。このLLMが実現した今日の機械翻訳の精度は、かつての機械翻訳のぎこちなさを知るものとしては目を見張るほどです。しかも、AIは訳すだけでなく、中身を勝手に書いてもくれます。こうした進歩を目の当たりにし、英語教育自体が不要ではないかという声も耳にするようになってきました。AIの進歩は、英語教育の目的をどう変えるのでしょうか、本稿では、OECDの上記の3つの観点からの考察を試みます。
OECDは「外国語は、他の人々、国、文化との架け橋となり、多様性の尊重と包括性の促進に役立つ」としています。外国語を学ぶことで、他の人々、国、文化について知り、それによって、自分とは異なる価値観や慣習を尊重し、様々な人々を受け入れることになるということです。確かに、外国語を学んだり使ったりする過程で、当該の言語や文化についてのたくさんの気づきがあります。自分の想像をはるかに超えた違いとの出会いは、学習者の価値観や常識を根本から揺さぶることになるはずです。慣れ親しんだ言語や文化は、自分にとってあまりにも当たり前であるために、これとまったく異なるものに出会ったときのインパクトは大きくなります。
では、AIによる翻訳・通訳の精度が限りなく高まったとして、こうした異文化理解はどうなるのでしょうか。今まで苦労して学習していたことばのバリアがなくなり、外の世界が容易に理解できるようになるでしょう。また、言語や文化についてのいわゆる百科事典的な知識も増えるかもしれません。さらに、コミュニケーションの容易さから、使う機会が増える可能性もあります。外国語が障害となって、やり取りが億劫だった人と頻繁にやり取りすることで、異文化理解が促進される可能性もあるでしょう。
ただ、ここで気をつけなければならないのは、AIはブラックボックスなので、AIがどのような文化的調整を行っているのかわからないという点です。AIがそもそも何かの調整をしたのか、したとしたら、どういう調整をしたのかはわかりません。このような調整について気づけるには、当該の言語や文化についてある程度の知識を持っている必要があると思われます。
OECDは「1つ以上の外国語を知っていると、国内外で、高等教育を受けたり、雇用されたりする可能性が高くなる」としています。日本で言えば、英語ができれば、国内外の有名大学に進学しやすいとか国内外の就職の選択肢が広がるということでしょうか。確かに今はそうかもしれません。しかし、AIの進化により、英語学習の「経済的恩恵」はこれからどう変化するのでしょうか。AI時代の英語学習の経済的恩恵は、高等教育の場や国内外の職場でどれくらい英語が必要になるのかに関わってきます。
英語に関して、AIは高等教育の場や国内外の職場では、今後どのように使われるでしょうか。機械翻訳の精度はこれからもっと高まるでしょう。その精度を持ってすれば、文脈依存度の低い、学術論文やビジネス文書はある程度の精度で日本語で読むことはできるようになるかもしれません。メールなども日本語で書いて、英語に翻訳したり、AIに英語で書かせたりというようなことはかなりのレベルでできるようになるはずです。
問題は、話す方です。準備時間のある口頭での発表は、翻訳ツールや音声合成を利用すれば可能かもしれません。しかし、質疑応答や同僚やクラスメートとのやり取りはどうでしょうか。会話は文脈依存の度合いが高く、その翻訳の精度は、完璧にはなりません。これは「ことばの意味は一義的ではない」という言語の特性から来ています。ほとんどの発話はたいてい複数の解釈の可能性を持っているのです。AIはいくつかの翻訳の可能性を示すことはできても、どれがその文脈でもっとも適切と考えられるか、は決められません。それを決められるのは話し手自身なのです。だからこそ、AIを用いても、その結果を評価し選ぶ力が必要です。「高等教育」や「仕事」の場では、AIは効率化をもたらしても、適切に使うにはそのことばの知識が必要です。ですから、外国語の知識のある人はよりよくAIを使いこなし、外国語の知識のない人との間に生産性の違いが生じ、それ故に、経済格差が生じるかもしれません。
話すことにおける、もう一つの論点は、相手に伝わっているのが、話し手自身のことばではないという点です。人間は、機械が生み出したことばに価値を感じるでしょうか。極めて事務的な事柄は機械でいいかもしれませんが、こうしたコミュニケーションに心が繋がる感覚は持てないでしょう。今後は、コミュニケーションに「機械を使う人」と「使わない人」に分断されるのかもしれません。「機械を使う人」とは雑談はしないでしょうし、それ以上の関係も築きにくいでしょう。コミュニケーションに「機械を使う人」は「使わない人たち」の世界に入りにくくなってしまうかもしれません。母語が異なる人々が共通して使う言語であるリンガ・フランカとしての英語でのコミュニケーションにおいては、「機械を使う人」は圧倒的なマイノリティになる可能性があります。このことは巡り巡って、「機械を使わなければならない人たち」に経済的不利益をもたらすかもしれません。
OECDは「外国語を学ぶことで、柔軟性、問題解決能力、抽象的思考、創造的思考などの認知能力が高まる」としています。外国語学習が認知的能力を高めることは、バイリンガリズム研究でよく指摘されます。これは、自分の母語とは異なる言語と格闘することで、上述の認知能力が高まるということでしょう。言語学習と言語使用のプロセスにおいて脳を使うことが重要なのです。
AIを英語学習に用いた場合はどうでしょうか。伝統的なドリルのアプリ化や音声認識による発音診断、AIによる会話練習などは今の技術でも可能です。AIは英語学習の効率化を様々な側面にもたらすでしょうが、この効率化が英語学習の認知的負荷を減らしてしまうかもしれません。その一方で、それぞれのステージの学習の効率化ゆえに、学習進度は進み、より短時間で高いレベルに達し高度な認知的操作と取り組むことになる可能性もあるのではないでしょうか。
英語を用いてのコミュニケーションは、AIの進化により(今よりは)容易になるでしょう。しかし、この場合、私たち人間にとっては、AIはいわば外部装置のようなもので、それを使ってコミュニケーションしたとしても、私たちの認知能力自体が高まるわけではありません。少なくとも、自力でコミュニケーションする場合ほどには、認知能力は高まらないでしょう。英語でのコミュニケーションの場においては、AIの進化により、私たちが英語コミュニケーションの際に得ていた認知的恩恵を放棄する可能性もあります。
AIの英語学習の目的への影響はかなり複雑で、今後どうなるか完全には予測することはできません。ただし、本稿で考察したように、英語学習がまったく要らなくなるという単純な結論には至らないということは確かでしょう。AIが進化した世界では、(英語を含む)外国語はこれまでとは異なる新たな目的を持って学ばれる可能性があります。そのときに向けて、私たちはAIの進化を注視し、その上で外国語学習の目的をしっかりと議論していかなければなりません。