午後の講演では、文部科学省の太田視学官から新学習指導要領の目指す英語教育について発表がありました。
我々が今生きている社会というのは、knowledge based society、つまり「知識基盤社会」と言われる社会です。具体的には、科学技術が進歩していろいろな意味で便利な社会、というとらえ方もできますが、もう一つのとらえ方は、学校で学んだ知識や技能はすぐに陳腐化してしまう社会であるということ。学校で学んだ知識や技能は常にアップデートしていかないと、より豊かな人生にしていくことがなかなか難しい場合がありますし、社会貢献する場合にも難しい。要するに、それらの知識や技能を常に更新できる人――自律した学習者、つまりautonomous learnersをつくっていかなくてはいけない社会なのです。そこで大事になる視点とは、生涯にわたって学習するという視点です。本当の学びというのは、世の中に出てから始まります。ですから学校教育の使命は、世の中に出てからずっと学び続けられる人をつくること。その土台づくりをするということです。
平成19年に改正された学校教育法にも「学力」の定義が明記されました。そこには、「基礎的な知識及び技能を活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力」とあります(講演者要訳)。1)きちんと表現する力、言語化する力も大事だと書かれています。そして主体的に学習に取り組む態度、これをきちんと育もうということも書いてあるのですが、その前振りには、小中高校においては「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう」ということが初めて明記されました。
外国語、英語というものは特にそうで、学び続けていかなければすぐにさびついてしまい、絶対に使えるようにはなりません。にもかかわらず、大学入試を経て希望の大学に入ったからといって学ぶことをやめてしまったら、これまでの6年間の努力はいったい何だったのか、ということになります。その観点から高校の英語教育を考えると、自律した学習者として4技能をどうやって伸ばしていったらいいかという学習方略がきちんと教えられているかどうか。それから、自分も先生のように英語を使えるようになるかもしれないとか、英語を利用して将来人生を楽しんだり、仕事に生かしたりという、学んでいく希望や自信を与えているかどうか。そういう観点からみると、非常に課題が多いと私はみています。
学習意欲というのは勝手に生まれるものではなく育まなければならないし、主体的に学習に取り組む態度というのも身につけろと言われて身につくものではないので、どうやったら生徒が主体的に英語に取り組むようになるのかという仕掛けを考えなければなりません。授業は小さな成功体験の連続でなければならないし、motivational feedbackがきちんと与えられなければなりません。
英語というのは、もちろん言語であるわけですが、日本にはなぜか「受験英語」というものが存在しています。これは世界的に見ればきわめて特殊なものであり、おそらく日本にしかないと思います。たとえばフィンランドでは英語が非常に達者な人が多いのですが、理由を尋ねると、「英語とフィンランド語はまったく違うから楽なんです」という。日本では「日本語と英語がまったく違うから難しい」と言う人が多いのですが、逆ですね。
お隣の中国や韓国では、国の政策として英語教育に非常に力を入れているのはみなさんご存じだと思います。韓国の指導要領を見ると、小学校も含めて授業はできるだけ英語でやりなさいと書いてあります。また大統領は「すべての教科を英語で」とも言っています。20年後を考えると、おそらく中国がますます力を持ってくるでしょうから、中国も含めて世界中の人々と少なくとも英語を媒介としてやりとりをする必要に迫られる時代になるでしょう。民間の調査によると、中国では毎年2000万人〜3000万人の英語話者が生まれている。そうすると、たった6年で日本の総人口と同じ人数の英語話者が生まれるということですね。インドもしかり。イギリスの植民地だったという歴史はありますが、英語を武器にしてコンピュータの世界などで躍進していますね。ベトナムもそうです。英語力を身につけてアメリカ社会にどんどん入っていっています。
そういう国と技術においても負けないようにしていかないと、日本は埋没してしまいます。「日本では受験英語なんです、だから使えないんです。」では通用しません。今の高校生の人たちにどう申し開きをするのでしょうか。「きみたち不幸だったね、受験英語だったからね。ごめんね、世界に置いていかれたけど頑張って。」とは言えないのです。
我が国の英語教育が目指しているものは、今も新しい学習指導要領でも、中学校は「コミュニケーション能力の基礎」、そして高校は「コミュニケーション能力の育成」です。2)どこにも「受験に耐える英語力を身につけさせる」とは書いていないわけです。だから現場の実態と学習指導要領が目指しているものが、実は一致していなかったということなのです。現行の学習指導要領も新しい学習指導要領も精神は一緒です。何も変わっていません。高校の学習指導要領が変わったと言われますが、実は変わったわけではなく、より具体的な表現にしただけなのです。つまり、現学習指導要領ではすでに「外国語を通じて=through English」と言っています。
ただ、現場の指導があまりにもauthenticityに欠けている実態があり、もうちょっとpracticalなものにしたいということで現行の学習指導要領には「実践的」という文言があえて入れられたわけです。冗長的なことは承知ですが、これくらい言わないと伝わらないだろうということで。現行の学習指導要領では、「自分の考えなどを表現したりする」となっていますが、この「表現したりする」は一方的に言えばいいという誤解があるため、新学習指導要領では「伝えたりする」にしました。なぜかというと、「伝える」という言葉を使った時点で、聞き手や読み手を意識するからです。伝わらなければ意味がない。要するに、人と人との関わりがここで強く意識されているのですね。聞き手を意識する、読み手を意識する、相手に伝わるようにするということは、相手を大切にすることでもあり、そういう体験を通して自分も大切にされているという自覚を持ち、自信を持てるようになるのです。ですから英語教育を通して広い心を持った人を育てる、この世の中で人として生きていくために何が大切なのかを意識した学習指導要領になっていると思います。
今回、非常に多くマスコミに取り上げられたのが「授業は英語で行うことを基本とする」というくだりですが、当たり前のことを文章化しただけのことです。なぜかというと、コミュニケーション能力を育成するためには、授業には当然exposureとexperienceがないとだめだということははっきりしている。「基本とする」はそれ以下でも以上でもないのですが、オンリーイングリッシュという誤解が大きく、それについては「教師は、生徒の学びを考えたらできるだけ英語を使うべきだし、できるだけ英語にしがみついてほしい」と思います。でも、必要があれば日本語を活用して構わないのです。
ところが現状は、どちらかというと日本語で行うことを基本としているものですから、ひどいケースでは50分のうち1秒も生徒が英語に触れないで終わるという授業があるくらいです。そうなると、この日本のEFL(English as a Foreign Language)の環境で、教室から一歩外に出たら英語にまったく触れる必要がない環境で、生徒はどこで「英語って言葉なんだね」「コミュニケーションの手段なんだよね」「ひょっとしたら私も先生みたいに使えるようになるかもしれない」と実感できるのでしょうか。科学技術のおかげで、実は日本は求めれば世界一英語に触れられる国でもあるのですが、求めなければまったく触れなくて済んでしまう。その結果、英語に対して生徒たちは受験科目の1つであるという認識しか持てないわけです。だからこそ授業では、わかる英語にできるだけたくさん触れる経験をさせること、英語をコミュニケーションの手段として、ただパターンプラクティスをやらせるのではなく、自分の考えを書いたり、相手に伝えたりする手段として使う体験をさせることが大事です。そうでなかったら、生徒はいったいどこでこれらを体験できるのでしょうか。
ですから、せめて先生には「授業中は英語を使ってください」と言いたいのです。日本の先生はその力を持っていらっしゃるわけですから。ただ慣れていないだけなのです。でも、これからは週16時間、先生は生徒という正直な聴衆の前で英語が使えます。わからなかったら「わからない」という顔をし、つまらなかったら寝てくれる、わかったらニコッとしてくれる、というこんな素直な反応をしてくれる聴衆の前で、です。半年経ってご自分の英語力が高まらないはずがありません。
マスコミなどで騒がれたなかに、「日本語で言ってもわからないのに、英語で言ってわかるわけがない」という批判がありました。でも、「理解の程度に応じた英語」という条件がある以上、わかるレベルまで落としこんであげればよいのです。中学1年生を教えている先生は、毎年やっていることです。この点に関してさらに申し上げたいのは、「それは英語教育の放棄になるのではないですか」ということ。たとえば、水泳のできない生徒がいる。そのとき「うちの生徒は泳げないので危ないからプールには入れません。オリンピック選手の泳ぎ方のビデオと、泳ぎ方の本を使って教えます」という先生はいますか。そうではなくて「だからこそ人一倍指導、支援します。そして人一倍水につけるんです」というのが先生でしょう。でも、いきなり2メートルのプールに入れたら溺れてしまうし、恐怖心が生じてしまうので、最初は水鉄砲で顔に水をかけることから始めて、20センチの深さ、50センチ、1メートルというふうにしていくのが普通の先生のやり方ではないでしょうか。
またもう一つおかしなことは、「うちの子たちはできない」と決めつけることですね。学び方に遅い早いはありますが、学べないという子はいません。教育という営みは、人間の可能性を信じることを前提にした営みのはずです。最初からできないと決めつけるならやらないほうがいい。絶対にできるようになると信じて進んでいくのが教育ですよね。
最後にこれだけは先生方に伝えたいのですが、それは「1人の学習者として学び続けていってほしい」ということ。その姿を生徒に見せることが必要なのではないかと思います。そして、生徒のために英語を使ってほしい。そうでなければ英語の先生が英語の先生ではなくなります。日本語だけしか使わなかったら、他の教科の先生とどこが違うのでしょうか。英語の先生が免許をもらって英語の先生としていられるのは、ご自分のために英語を使うためではないですね。英語の先生の価値はどこにあるのか。それは、必要に応じて、生徒のために英語を使ってあげられるということです。ですから授業中に英語を使うということは当たり前のことです。もちろん授業の主体は生徒にあるわけですから、先生より生徒のほうが英語に触れてなくてはいけないし、使わなくてはいけないことは言うまでもありません。だから、50分の授業のうち、先生の話はせいぜい20分ぐらいにとどめてください。その中で、授業をコントロールするための英語、音声モデルを提供するための英語、そして理解を助けるための英語を駆使するのです。それからグループワークを必ずさせるわけですから、そこでは必ずコミュニケーション・ブレークダウンが起こるのでスキャホールディングのための英語が必要ですね。そしてもっと大事なのは動機づけのための英語です。これは日本の教室で一番欠けているのですが、先ほども言ったmotivational feedbackとしての英語です。つまり、“Good job! ” “Well done! ” “I like the way you try.”“That’s nice! ”というような英語です。先生は、これらの英語を組み合わせて使うことになります。これらは、もちろんTeacher Talkです。
要するに、授業に絶対必要なものはexposureとexperience。生徒がわかる英語に触れる機会、そして英語を使う機会が非常に大事です。これがないと日本の外国語教育は変わりません。それからもう1つ大事なこと、教育現場の先生方がおそらく忘れてしまっていることは、言語学習というのは「あいまいさに耐えていくこと」ではないでしょうか。日本語にすべて置き換えて文法的に説明してわかった気になっていたとしたら、それは日本語の処理をしているだけで、英語の処理はしていません。英語の処理をし続けていくということは、多少のあいまいさに耐えながら、そのあいまいな部分を徐々に減らしていくことではないでしょうか。だから「100パーセントわからなくてもいいんだよ。困った顔しないで」ということを言い続けていく必要があると思います。
1 | 「前項の場合においては,生涯にわたり学習する基盤が培われるよう,基礎的な知識及び技能を習得させるとともに,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくみ,主体的に学習に取り組む態度を養うことに,特に意を用いなければならない。」(学校教育法[平成19年改正] 第30条 第2項) | ||||
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